髪がわさわさ伸びてた39年前、東京から
1000キロ離れた小笠原諸島にいました。
サメの宝庫で、海洋学者クストーも来ていました。
たまたま、入った野外レストランオーナー
具志堅さんとこでビールを飲んでいた。
小さな娘さん7歳かな、随分気に入られて
膝の上に乗っかって離れない。
本当に離れなくて困る、具志堅さんも笑って
随分好かれましたねー
かの、有名な具志堅用高さんの親戚です。
同じ場所で4人の女子大生と知り合う。
お一人は、ここの小笠原村の出身者で
おじいちゃんは、村で有名なタケじい
船を出迎える時に、兵隊ラッパで奏でるので
皆知らない者はいない。
出迎える時のラッパは軽快なリズムの音で
ラッパの仁丹の♬パッパラ パッパ
パッパラ パッパ
パーパ パーパ パッパッパ🎶
去る時は、蛍の光♬ パーパーー パパ
パーパーー パパ パーパーパーパーパーパーー🎶
見送る時は、島の人達や
海上自衛隊の人達も見送ってくれる。
また来いよーって叫ばれる
私も次の船が来るまで、いたので
送る側になって
哀愁に満ちた経験をしたのです。
島の反対側に行く道は、炎天下の中
汗まみれになり6時間、島を横切り
パノラマのようにに見える眼下の浜辺に降りる階段は延々と何処までも
続いて到着した時には膝がわなわなと、
震えてとてもじゃないが、
戻ることは考えられないほど疲労困憊。
その時です、天の助け沖に見える船から
おーい、とタケじいの声が
タケじい!助けて!乗せて!
こーいと言うではありませんか。
さあ、疲れた身体を振り絞り泳ぎ始めました
泳ぎながら、何やらチク!痛い!
またまた、チク!痛い!
よ〜く見るとクラゲの大群の中でした。
何とか沖のタケじいの船までたどり着いて
乗せてもらい助かった!
1番痛かったクラゲは、猛毒のかつおのえぼしで、肩に何十年も痕が残りました。
船には、タケじいの孫娘さん含む女子大生4人組が乗っていて、知り合いだから乗せてあげてと言ってくれたので助かりました。
後に、その中のお一人とは友達となり
日産自動車の社長秘書となり、お友達2人で北海道旅行に来て、私がいない時に実家に泊まり今でも、年賀状を両親と送りあっています。
その日、島は停電となり星空の下、真っ暗な道を歩いて、カタツムリの親玉の様なアフリカマイマイをグチャっと、あ!ごめん!
グチャ!あ!ごめん!と、バナナハウスまで歩いて帰りました。
島の魅力は、数限りなくあり、亀の産卵場所や、旧日本軍司令部跡や、トウチカ、グラマンの戦闘機、
旧日本軍の燃料の備蓄タンク内は今でもビカビカの状態で残っています。
遡る事2年前ここは、アフガニスタン首都カブールのチキンストリートのコラサンホテル
昼間は、小さなレストランで外で食事を、目の前には岩山がそそり立つ
小さなステーキ、木の実が入ったヨーグルト
どれも美味しい。
ここには、銀行よりレートの良い闇ドル両替商がいます。
どこの国のお札でも変えてくれる。
お札の束を輪ゴムで持っているので直ぐに分かる。
呼んで、交渉をする
ワンダラー ハウマッチ アフガニ
ベリーグッドレート
オケー
トゥモロー ナインラクロック ディス
オケー
これで、通じる。
アフガニスタンは、大きく南回りコースは舗装道路でメインストリート
真ん中は道無き道で通れない。
北周りは、神頼みコースで山賊が出る
カブールから、8時間かけてバーミアンにそこから、さらに奥地バンデアミールへ
行く前にアラーの神に祈りバスは出るが、雪で道が無くなり、
1人がバスの前を歩き誘導しながら行くが、雪が深くなり中止となった。
写真は、ギリシャのアテネの泊まっていたプラカインホテル前、このワーゲンコンビ9人乗りで
写真家、物書き、登山家、私の4人で喧嘩たびとなる中近東を陸路で行くことになるのです。
ちなみに、写真の左端の中国人ぽい人は佐藤栄作と言う名の、中南米、中近東、アメリカと自転車で放浪している画家で
ドイツでは名の通った方です。